「公共性のパラドックス」
ある資格試験の長文読解問題で「公共性のパラドックス」という文章を読み、印象に残っていたので読み直してみました。
内容をまとめると、
公共の場ではさまざまなルールがある。
ルール違反をした人がいても、その場にいる人達は、注意をすることができずに、心の中でイライラしたり不愉快な気持ちを押さえ込んでいる。
みんなのためにあるルールなのに、みんなのための公共の場なのに、一人ひとりがその「公共」に入っていない。
警察官や電車の車掌のような立場の人だけが「公共当局」となってしまっている。
路上喫煙禁止区間では
例えば、路上喫煙禁止区間で、タバコを吸いポイ捨てしたのを見かけたら、どうしますか?
「君、ここはタバコを吸ってはいけないエリアだよ!吸い殻を拾って、灰皿に捨てたまえ!」
なんて言ったら、逆恨みされ何をされるかわかりません。
なので、私だったら何も言えず、見て見ぬふりして通り過ぎてしまうかもしれません。
でも、直接、注意することだけが私たちに出来ることではないのです。
ポイ捨てした人がいなくなってから、そっとその吸い殻を拾って、灰皿に捨てることはできます。
イライラするのではなく、行動することで、街もキレイになるし、もしかしたらその行動を誰かが見ているかもしれません。
家に帰って家族に話し「今日、いい人がいたよ。ポイ捨てした吸い殻を黙って拾って捨てていたよ。」と。
そうすると誰もイヤな気持ちにならずにすむのです。
(出典小田全宏「新・陽転思考―前向きに生きるための77の知恵」)
電車の中での携帯通話
電車の中での携帯通話でも同じです。
ルールは乗客のためにあるのに。
乗客はルール違反をしている不埒者を、ただ睨みつけることくらいしかできない。
まれに不埒者に注意する人がいても、周囲の乗客たちが助けないので孤立してしまい、
逆にその不埒者からひどい目にあわされて、日本社会の文明度を「痛」感することになりかねない。
道路では警察官が公共であり、駐車違反の(=通行人に不利益を加える)自動車があっても通行人は何も言わない。
道路の規則は通行人のためにこそ制定されたはずなのに。
(出典平子義雄「公共性のパラドックス」より)
この記事を読んだみなさんは、どんな感想を持ちましたか?
ルール違反を注意した勇気あるはじめのひとりも素晴らしいですが、
その人を孤立させないためにも、周りにいるみんなも当事者なんだから
勇気ある2人目、3人目が出てくるといいですね。